2016年05月

サウンドトラック発売をお願いする涼宮ハルヒファンのプロジェクトの活動報告
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  • はじめに

  • 初めまして。たっくると申します。 ただのいちファンとしてこのような企画に参加することについて、大変光栄であり嬉しく思う半面、私では役者不足だと思いながら、カタカタと言葉をひねり出しているところです。読みづらい文かと思いますが、ぜひお付き合いください。

    はじめに一言。

    サントラ発売決定おめでとうございます!!


    ©2006,2007,2008,2009谷川流・いとうのいぢ/SOS団

    本当におめでとうございます。
    ハルヒの劇伴が気になっていた方も多いとは思いますが、今までDVDの特典でしか手に入らなかったため、曲単体で聴く機会は少なかったと思います。そのような方々にもサントラ「涼宮ハルヒの完奏」を入手して、数々の名劇伴を心ゆくまで味わっていただきたいです。

    そんなこんなで、今回はエンドレスエイトⅠ(12話)に使われた劇伴の中から、特に好きな楽曲を4つピックアップして、その良さを出来る限り伝えていきたいと思います。

  • 『活動開始』【03:08~04:04】


  • ©2006,2007,2008,2009谷川流・いとうのいぢ/SOS団

    SOS団が駅前で待ち合わせるシーンに使われています。
    本編が始まってから1番最初に流れる劇伴で、ここからSOS団の夏休みの始まる!といった雰囲気にピッタリな元気な曲です。

    ドラム、ラテンパーカッション、オルガン、木琴、ギター、ピアノ、ブラスから構成されていて、特徴的なリズムが曲の骨格となっています。この曲は生録音された楽器が多いため、打ち込みが多かった1期の曲と比べると音の豊かさが全く違くて驚きます。 特典DVDのコメントにも書いてありますが、2期の曲は生演奏が入っている分、演奏面でも楽しめる曲が多くて素敵ですね。

    堂々と歌うブラスと可愛く鳴る木琴に何処と無くハルヒらしさを感じます。
    …とここまで書いたところで、第2話のシシピズさんのレビュー「記号的なサムシング」を思い出して、確かにキャラクターを象徴する楽器が存在するかもしれない、と1人興奮していました。
    ブラスセクションは「ハルヒの自己中な言動」、また木琴は「好奇心旺盛な子供らしさ(純粋さ)」や 「女の子の可愛さ」って感じでしょうか。 「おいおい」(1期)を聴くと、まさにそのように楽器が使われているように思えます。(シタールは変人・奇人かな)


    ©2006,2007,2008,2009谷川流・いとうのいぢ/SOS団
    ↑「おいおい」が使用されたシーン(1話部室にて胸を揉まれるみくる)

  • 『ミーティングタイム』【06:13~07:22】


  • ©2006,2007,2008,2009谷川流・いとうのいぢ/SOS団

    喫茶店でミーティングをしているシーンで流れます。
    僕の好きな劇伴TOP5に入選確実な1曲。 イントロ部分で平行移動するピアノとオクターブで動くベース、何度真似したかわかりません。

    神前さんはこの曲について「A&M+モータウン+ビートルズ」風のアレンジと仰っていて、(良い意味での)古臭さや懐かしさはこれが原因でしょう。
    メロディーにはフリューゲルホルンと呼ばれるトランペットよりも柔らかい音が出る金管楽器が使われていて、少しモコっとした音色がアレンジの方向性にピッタリですね。

    03_takkuru
    ©2006,2007,2008,2009谷川流・いとうのいぢ/SOS団

    ハルヒの劇伴ではこういったアレンジはお馴染みですが、他にも「らき☆すた」や「WORKING!!」「Aチャンネル」でも聴くことができます。
    特に「WORKING!!」の劇伴は神前さんの担当ではありませんが「幸福な閉店」や「北海道某所」など、この曲に影響を受けてるとしか思えない曲があったり。是非聴いてみてください。
  • 『天体観測』【17:27~18:55】


  • ©2006,2007,2008,2009谷川流・いとうのいぢ/SOS団

    題名通り、天体観測のシーンで流れています。怒涛の夏休みイベント消化体制の中では、唯一しんみりとした曲です。今までドタバタしてたので、一層心に染み入ります。
    神前さんはこの曲を即興で弾いたものをブラッシュアップして完成させたのだとか……。凄すぎます。

    この曲を聴くと、ただただ優しいピアノとグロッケンの音色で星空を思い浮かべてしまいます。拍の不安定さが星の儚い瞬きを表現してるようでもありますね。
    名曲です。

    蛇足ですがこの曲で使われている音源は「ivoryⅡ GrandPianos」の「 German Steinway D 9′ Concert Grand」です。(確証はないですが聴くと疑いようがない)
    エンドレスエイトではお馴染みのピアノ音源です。DTMされる方でピアノ音源に迷っている方がいたら是非オススメしたい本格派ピアノ音源!
  • 『過ぎゆく夏の日々』【19:49~21:17】

  • 花火大会、ハゼ釣り大会、肝試し、映画ハシゴ、海水浴、ボウリング、カラオケ。









    ©2006,2007,2008,2009谷川流・いとうのいぢ/SOS団

    残り2週間となった夏休みで大量のイベントを消化していく日々。
    こんな高校生活を送りたかった。

    怒涛の夏休みイベント消化の回想で流れている劇伴がこの「過ぎゆく夏の日々」です。
    The Supremesの名曲”You Can't Hurry Love”に代表されるような心がウキウキするリズムにのせて、主張し過ぎないオルガンのメロと神前さんお得意のブラスアレンジ。 後半のグロッケンが画面との相性抜群で、本当にいい味を出しています。

    本編を知らないでこの曲を聴くと、単なる楽しい曲に過ぎませんが、視聴後だとここにSOS団の「過ぎゆく夏の日々」が詰まっているのがわかって泣けてしまいます。劇伴って面白いですね。

    そして、このあと何万回もループすることも知らずに…。

    ―この頃は皆幸せだったのだ―
  • おわりに

  • 以上でレビューを終わります。いかがだったでしょうか。
    今まで音楽を殆ど聴かなかった人がハルヒの劇伴音楽に惚れて作曲を始めることがある(=僕)くらい、ハルヒの劇伴は魅力的です。

    ぜひサントラを購入していただき、この数々の名劇伴を味わってみてください。
    ハルヒ的に言うとこうなります。

    ”買わないと死刑だから!”
    来ないと死刑だから
    ©2006,2007,2008,2009谷川流・いとうのいぢ/SOS団

■著者紹介

名前 たっくる(@takkuru_
自己紹介 

初めまして。たっくると申します。
神前さんの劇伴(主にハルヒ)に惚れて作曲を始めた大学生です。
ハルヒのサントラが遂に発売されるということで、最近すこぶる調子が良いです。

■ハルヒシリーズで好きな劇伴曲

白線マーチ(一番好きな劇伴曲)
おふざけマーチ
冬の足音
ミーティングタイム

結構気分によって変わりますが上記は特に!

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  • はじめに

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    ©2006谷川流・いとうのいぢ/SOS団


    さて、今回は劇伴レヴューとして、第6話「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅵ」の音楽について書いてみたいと思う。


    「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅵ」といえば、もはや説明不要ではあろうが、原作の時系列と異なる順序で放送するという実験的な試みが施された2006年放映版では、全14話の最終話として物語を締めるのに相応しい圧倒的なカタルシスを見せつけたのはもちろんのこと、時系列順に放映された2009年版でも、憂鬱シリーズのラストとなる第6話で、涼宮ハルヒここにあり!といわんばかりに、それに引けをとらない十分なカタルシスを見せ付けた、とにかく凄まじい話数である[1]


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    ©2006谷川流・いとうのいぢ/SOS団


    sleeping beauty――Bパート18:40過ぎ、閉鎖空間にハルヒとたった二人きりで閉じ込められたキョンが、世界の崩壊を目前に王女の眠りを覚ます王子としての”行動”に踏み切るその瞬間、画面から放出される極大のエネルギー量は、圧倒的である。

    この、最大量のエネルギーが放出される18:40過ぎのブレイクポントを目がけて、自身にとってのハルヒとは何かを自問する、キョンが決してこれまで行ってこなかった(いわばタブーともいえる)モノローグの語気は高まり、また画面でもそれに連動するように、キョンの脳内イメージの中のハルヒが4分割から6、9、17、25、121分割へと増幅、膨張していくという実に刺激的な映像演出が施される。

    そして音楽では、マーラー交響曲第8番「千人の交響曲」第1楽章の、クラシック音楽ならではの圧倒的スケール感をもった荘厳なサウンドが、このハルヒ史上最大のクライマックスシーンにおいて、決定的な仕事をするのである。


    物語、セリフ、映像、音響、音楽――画面に存在するあらゆる要素が互いに及ぼし合い、渾然一体となって創出する混沌とカタルシスが圧巻としかいいようのないこのシーンは、涼宮ハルヒという作品を代表するシーン、であるにとどまらず、アニメ史に刻まれる名シーンといってもいいのではないだろうか。


    私は常々、アニメという表現媒体の(小説、漫画、実写映画……等と比較した場合の)最大の強みは音楽にあるとも思っているのだが、その音楽演出が特別に冴え渡った本シーンは、人々を魅了してやまないアニメのその底抜けな力が鮮烈に示されたシーンの一例としても大いに語ることができるだろう。


    「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅵ」とは、私にとってつまりそういう話数である[2]


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    ©2006谷川流・いとうのいぢ/SOS団



 

[1]6話という尺の中でこれだけの壮大なスケールとカタルシスを発揮したアニメ作品というと、「トップをねらえ!」以外他に何の作品があっただろうか……。

 

[2]記憶を辿ると――初めて私がこの話数を観たのは、実はそんなに昔ではない。アニメファン歴もまだまだ浅く、「萌え」というワードにすら抵抗があった当時、相当な人気作とは当然知りながらも、ハルヒとはどれほどのものか、とある種疑いの姿勢を持ちながら視聴したのが本作品だった。しかし結果は、この第6話の破壊力を前に「これが涼宮ハルヒの凄さなのか……」と完全に打ちのめされたわけである。




  • Ⅰ 涼宮ハルヒの魅力

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    ©2006谷川流・いとうのいぢ/SOS団[3]


    6話の詳細な話に入る前に、私にとってのハルヒとは何か、という部分について少し考えてみたい。


    日常と非日常の対比――涼宮ハルヒの面白さ、魅力は色々あるだろうけれども、大きなところでやはりこれははずせないところだろうか。

    本作品では、あらゆるエピソードにおいて、平和な日常と、それと隣り合わせに存在する非日常が色々なやり方を持って描き出される。


    まず、日常から非日常へと転じるスピードはエピソードごとによって様々である。


    能天気な、あるいは卑猥なコメディパートが続く中、何の前触れもなく突如シリアスな場面に転換する時もあれば、不穏な影にゆっくり覆われていくかのように穏やかな日常が非日常に徐々に侵食されていくこともある。

    静から動への急激な移行が生み出すダイナミズム、とでもいおうか――個人的には、とりわけ前者のケース、例えば第4話「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅳ」で朝倉のナイフに突如切りつけられるようなシーンにおけるダイナミズムに特に大きな魅力を感じるのである。


    また、日常と非日常の距離感――つまり、どの程度のレベルの非日常か、に関しても、猫が人の言葉を喋るといったものから(第24話「涼宮ハルヒの溜息Ⅴ」)、生命の危機(第4話、第22話「涼宮ハルヒの溜息Ⅲ」など)、世界崩壊の危機(第6話「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅵ」)といった具合に非常に大きな触れ幅を持っており、それがより一層日常と非日常の対比を鮮やかさに映し出すのである。


    この辺に関して以下に、いくつかのエピソードについて日常と非日常の推移を視覚化してみた。

    これは、キョンの一人称視点で進行する物語においては、キョンにとっての非日常レベル、あるいは、キョンの精神状態を表したものであるともいえるが、そこまで厳密なものではないのであくまで参考程度に。


    図1.第4話「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅳ」におけるキョンの精神状態
    4話

    図2.第5話「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅴ」におけるキョンの精神状態
    5話修正

    図3.第6話「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅵ」におけるキョンの精神状態
    6話修正

    図4.第22話「涼宮ハルヒの溜息Ⅲ」におけるキョンの精神状態
    22話


    各話ごとに、日常から非日常への推移にさまざまな傾斜、緩急があるのがわかるが、このバリエーションの多さが本作品の面白さ、魅力を語る上での大きな一要素といえるのではないか。

    第6話はそんな中にあって、図からもわかるように、非日常が世界崩壊の一歩手前まで近づいたまさにクライマックスに相応しい話数ということである。

    結局のところ、この作品最大の魅力は、このように様々な起伏をもって描かれる日常と非日常の対比によってより鮮明に浮かび上がってくる尊い日常にあるといえるのではないだろうか。



     

    [3]巷では京アニ作品における女子の服装がだざいという話題もあるようだが、ハルヒについては、ここで個人的な見解を述べるのは避けることにしよう。




  • Ⅱ 涼宮ハルヒの音楽(演出)Ⅰ

  • 「いつもの風景」とバカラック「雨にぬれても」~

    次に、ハルヒの音楽全体について考えてみたいのだが、日常と非日常の対比をより鮮明に、そしてそこから尊い日常を浮かび上がらすために、音響監督・鶴岡陽太氏がどのような演出プランを思い描き遂行したのか、またそれに対し神前 暁氏は実際にどのような音楽をもって応えたか、という視点で話を進めていきたいと思う。


    鶴岡氏の本作品における演出プランがどのようなものであったか――これについては、参考になるような資料、文献がほぼゼロに近いので[4]推測でしか語れない、が、本作品最大の肝――尊い日常を効果的に伴奏するために、まず鶴岡氏がとっておきの一曲、ハルヒという作品を代表するような決定的な楽曲を神前氏にオーダーしたのではないか、というのは割と容易に想像が付くところではある。


    ハルヒを代表する曲、といえばもちろん「いつもの風景」、ということになるだろう。


    神前氏自身がどこかで公言していたと思うが、この曲は、クリシェ(あるいはペダルポイント)を用いたイントロのサウンド、そしてその後に始まる印象的な旋律を聴いていただけるとわかると思うが、バート・バカラック作曲の名曲「雨にぬれても」から大きな着想を得て作られた楽曲であろう。

    https://www.youtube.com/watch?v=7kjIN5mEf44

    「雨にぬれても」を聴くと、思わず「ああ!」と心の中で叫びたくなってしまうが(笑)、皆さんはどのような感想をお持ちになるだろうか。


    個人的な印象としては、「いつもの風景」「雨にぬれても」のオマージュ(として作品に何か遊び心のような要素や別の文脈をプラスする)にとどまらない――それはもはや、「雨にぬれても」という曲を完全に消化し涼宮ハルヒという作品の一部、空気として血肉化してしまったのではないか、と思えるほどに作品にとってなくてはならない大きな存在となっているのではないかと。


    神前氏の音楽の個性、素晴らしさについて多くを語るのはまた別の機会にしたいが、「いつもの風景」のような楽曲を作ることができる作曲家、というのがある種、身も蓋もないけれども、最もシンプルかつストレートに劇伴作曲家としての神前氏の魅力や個性、ストロングポイントを語っているものだともいえそうではないか。

    つまり、音響監督のオーダーに対し、音色の選び方や旋律の形に自己主張しすぎない程度にほんのりと作曲家のテイストを残しながら、豊富な音楽的引き出しからその作品個別の色に完全にフィットするような楽曲を生み出せるのが神前氏である、と(実際、ハルヒ以外の作品でも、神前氏のこのような、どこまでも作品に寄り添っていてそれでいてとても耳によく残る楽曲というのは多く見受けられるように思う)。


    cppzさんの書かれた第2話の劇伴レヴュー「【第2話】記号的なサムシング」によると、

    「いつもの風景」は<嬰ヘ長調(ファのシャープから始まる長音階)>の曲であり、また<嬰ヘ長調というのは全ての調のなかで最も煌びやか、かつ現実離れした雰囲気を持つ調とされている>

    そうである。


    最も煌びやか、かつ現実離れした雰囲気――というのはまさに非日常との対比からより鮮明に描き出される尊い日常という本作品のテーマに合致しており、神前氏は確信犯的にそのような調を選択してこの曲を作ったのではないか、というのもあながち見当違いの妄想ではないかもしれない。


    エピソードの冒頭で物語開始の合図として、あるいは平和な日常の象徴として鳴り出す「いつもの風景」。そして非日常的体験の後、いつもの日常への回帰と同時に再びこの曲の印象的なイントロのサウンドと旋律が鳴り始める時、我々はいつもと同じ、でありながら少しばかり尊くなった日常の幸せをそこに見出し、いい知れぬ安堵感と充実感を得るのである。

    これが本作品における音楽の定番にして決定的な演出のひとつであり、そこでこの曲が果たす役割、劇伴効果の高さは極めて高いということができるだろう(後述するが、第6話においてもやはり例外に漏れずこの定番演出が採用されている)。



     

    [4] http://priority1.blog51.fc2.com/blog-entry-1620.html このサイトにおける講演会レポートでは、「涼宮ハルヒの消失」における音楽演出についての鶴岡氏の貴重な解説を読むことができる。

    また、ヒグチ氏による「アニメにおけるサウンド/ボイス演出と、ベストテイクを降ろす技術 ~ヒットメーカー鶴岡陽太のコンセプト志向~」(『多重要塞 第三号』所収)では、この講演会レポートの内容にさらに肉付けして膨らませることで鶴岡陽太氏の音楽演出の深層部に迫ろうとする興味深い考察を読むことができる。

    「涼宮ハルヒの消失」「魔法少女まどか☆マギカ」1話/10話で見られた氏の演出は、「ワンシーンの表現よりも作品全体のコンセプトの表現を優先させることで、シーン単位もしくは話数単位での意識を超えた表現を、サウンドトラックに織り込む」(84頁)ようなものであったと。音響監督という役職には、常に作品全体に目を光らせた上で部分・細部の演出を行うといった視野の広さが求められるというわけである。

    「アニメの音響監督は、「音響監督」と聞いて僕らが思い浮かべるよりも、作品に、深く、多方面から関わることになる。」(75頁)

    「メインスタッフとして初期段階から作品にコミットしている音響監督は、(略)テレビシリーズであれば話数の区切りを超えた表現を仕込むことも可能となる。」(84頁)

    本論考から浮かび上がってくるのは、鶴岡氏の確かな演出手腕であると同時に、アニメの音響監督のその極めて重要な役回りでもある。そのシーンでどれだけ懐の深い音楽演出が施されるかは、音響監督個人の作品に対する理解・洞察力の深さとセンスにそのまま直結している――こう考えるとそれには大いに頷けるところである。

    こうした鶴岡氏の作品全体を見渡す広い視野が可能にする話数の区切りを超えた表現は、もちろん、「涼宮ハルヒの憂鬱」でも見つけることができるだろう。




  • Ⅲ 涼宮ハルヒの音楽(演出)Ⅱ

  • 日常BGMと非日常BGMの住み分け~

    piano06.jpg
    ©2006谷川流・いとうのいぢ/SOS団


    日常と非日常の対比をより鮮明にするための音楽演出プラン、というのもまた、そのはっきりした演出意図が感じ取れる楽曲配置を考えれば割と容易に想像できるところである。

    本作品においては、一貫して、平和で能天気な日常パートは生楽器やコミカルなテイストの音色、遊び心のあるサウンドなどを軸に据えた楽曲で構成(例えば、「好調好調」という曲では、曲調とともにその一見チープとも思える「音色」がハルヒの世界観に絶妙にフィットしている。神前氏のこうした作品に寄り添うための音色選びの高いセンスは本作品の他の曲においても随所で見ることができる)。 それに対して非日常パートは、SF的なシークェンスになることが多いこともあって、エレクトロな音色を中心にアンビエントな雰囲気や浮遊感漂うサウンドを備えた楽曲で構成されており、日常BGMと非日常BGMの住み分けが徹底されている

    また、非日常パートの象徴ともいえる閉鎖空間での巨人(神人)の登場に際しては、より一層の非日常感を演出するため、ここにさらに男性コーラスを加えることで大きな効果を上げているのであるが(「神人」)、このコーラスが6話におけるハルヒ史上最強の非日常BGMであるマーラー「交響曲第8番」で極限まで肥大する、というところにも一貫性のある演出プランを見出すことができるだろう。


    昨今では、エレクトロなテイストの劇伴を日常BGMとして用いるケースもかなり頻繁に見られるようになったと思うが(例えば、「ノラガミ」や、「Angel Beats!」「Charlotte」といった作品などが個人的には特に印象に残っている)、ハルヒをこうしてあらためて観てみると、SFにエレクトロな劇伴を合わせるという王道だけどもある種ベタともいえる手法が実に高い効果を上げていることに驚く。

    この効果の高さは、日常BGMと非日常BGMの徹底した住み分けがあるからこそ実現されたものだともいえそうだが、ともかく、本作品の肝である日常と非日常の対比において音楽側のこうした演出プランの作用は決して小さなものではないだろう。


    見えざる手――物語の裏側で無意識レベルで視聴者に働きかけ作品に引き入れる、というのがこの種の演出の特徴といえるかもしれない。




  • Ⅳ 涼宮ハルヒの音楽(演出)Ⅲ

  • 作品と音楽の複雑な関係、奇跡的な出会い~

    しかし、劇伴と作品との関係というのは実に複雑で一筋縄ではいかないような深いものであるように思う。

    物語や映像の力で音楽が(その楽曲単体としてのポテンシャル以上に)より魅力的に聴こえる時もあれば、単体として聴いても十分に力のある楽曲が(当然の結果として)映像にもその力を分け与える、あるいは映像と音楽の互いに拮抗した力が化学変化を起こして予想外の高いエネルギーを生み出し奇跡的なシーンを作り出すこともあるだろう(このような映像と劇伴の刺激的な関係、劇伴の在り方が個人的には理想であるし、後述する第6話最大の見せ場はまさにこのケースに当たるものである)。


    つまり、一概に映像から劇伴だけを取り出してそれが良い音楽であると語ることはできない――劇伴は、当たり前だが常に映像、作品とセットであるものとして存在している、というところである。

    「(原作)物語の存在→スタッフの選出→音響監督の演出プラン→作曲家のスキル、イマジネーション→音響監督による音楽配置、編集」――実際にある曲がそのシーンで奏でられるまでに、このような複数人の才能と閃きが掛け合わされるいくつものプロセスが存在する、という点で、作品と音楽の幸福な出会いは奇跡的なものであるというのもあるだろう。

    先ほどの、非日常パートでのエレクトロな質感の劇伴の効果が高かったのは日常パートとの住み分けがきっちりなされていたからという話も、こういったプロセスにおいて元を辿っていけば、まず、当たり前だが、そのような日常と非日常の印象的な対比を物語の基本構造として備えていたハルヒという作品自体の存在があったからこそ、というところにいきつくし、ある意味で、鶴岡氏と神前氏の才能は本作品が初めから持っていた高いポテンシャルを十全に引き出すべくそこに続いた、という見方もできるのである。


    そもそもの物語、映像に力がなければ、音楽がそこで果たせる役割にも限界があるだろうし、逆にそれらに力があれば、作曲家や演出家の才能、閃きがそこから豊富なインスピレーションを感じ取ってより印象的で優れた音楽を創造していくことができる(可能性は高い)ということである。


    そうした考えに立てば、そもそも涼宮ハルヒという作品自体が、多彩な音楽演出、幅広いジャンルの音楽を無尽蔵に取り込みそれらを自らの世界観をより強固なものにする血肉として消化することができる懐の深さを持った極めてポテンシャルの高い作品であって、それはまた、音楽をより豊かに響かせる土壌を持った作品といえるようなものでもあるだろうと。


    良い音楽を生み出す豊かな土壌――「ハルヒメソッド」~

    多彩な音楽演出や幅広いジャンルの音楽を取り込める懐の深さ、音楽をより豊かに響かせる土壌とは何かについて以下に説明を試みたい。

    鶴岡氏による演出や神前氏の音楽が素晴らしいのはいうまでもない、というのを前提に話を進めていきたいのだが、上述の作品と劇伴の複雑な関係を考えれば、まず演出や楽曲を褒める前に、物語(原作)を褒めるべき、というと少し語弊があるか――音楽(演出)について考える前に、それが生み出される土壌としての物語の設定や構造について考えるのが先――そうすることでより音楽(演出)に対する視界も開けてくるのではないだろうか。


    涼宮ハルヒという作品の物語構造・設定は、考えれば考えるほど本当に恐ろしいほど良く出来ている。

    ハルヒ、キョン、古泉、朝比奈ミクル、長門有希という魅力的な登場人物達で構成されるSOS団が様々な物事に取り組み、事件、珍事、あらゆる状況に遭遇していくという基本構造――これによって、物語は、萌え、笑い、ラブコメ、日常、学園ものといった豊富な要素で常時安定した面白さを作り出しながら、SF、ミステリー、ファンタジー、時事ネタなどあらゆるジャンルに舵を切ることが出来るのである。


    あらゆるジャンルに舵を切れる――これが、ハルヒという作品が幅広いジャンルの音楽を取り込める大きな理由のひとつであろうと。


    これはまた、当然、多彩な音楽演出にもつながるのだが、例えば、第7話「涼宮ハルヒの退屈」の野球回で見られた「タッチ」のパロディオマージュ(「野球は青春との接触」)などはそのいい例だろう。

    しかし、本作品が他の作品と一線を画するのは、この更に先に行くことが出来る――つまり、より高次元の音楽演出を生み出すクリティカルな物語構造・設定を持っているところにあると。

    その設定こそが、本作品の根底に流れる大きな物語ラインであり、ハルヒを中心とした魅力的なキャラクター達が本来の顔としてもつ「非日常性」である。

    これによって、前述したように、シリアスな方向に突如振ることで穏やかな日常との効果的な対比演出を作ることができるのである。

    何らかの「非日常性」がシーンに顔を出す時、物語には大きな変化、起伏が生まれる――そこにひとつ上の次元の刺激的な音楽演出を挟み込める大きな可能性と余地が生まれる、というところに本作品の大きな強みがあり、この強みが本作品を他の作品と一線を画する唯一無二の存在にしているということができるだろう。


    多彩な音楽(演出)を取り込める設定、そこからさらに一歩進んでミラクルな演出をも呼び込める作品の肝となる特別な設定

    まず物語自体に良い音楽(演出)を生み出せる可能性・ポテンシャルがどれほどあるのか、といった、作曲レベルのもっと前にある物語レベルでの音楽の「創り方」のようなものを考えた時、本作品の物語構造・設定は、かなり高い確率で良い音楽(演出)を生み出せる優れた物語構造・設定の一モデルであるということができるだろう。

    つまり、ハルヒのような物語構造・設定を持った物語を作れれば、それは必然的に音楽がより豊かに響く土壌となり得るだろうということである。


    このような音楽の創り方を「ハルヒメソッド」としてひとつ提案したい。


    第27話「射手座の日」は、このハルヒメソッドを具体的に説明するのに格好の話数であるので、そこでどういった刺激的な音楽演出が見られたのか簡単に触れておくことにしよう。

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    ©2006谷川流・いとうのいぢ/SOS団


    「射手座の日」は、SOS団の面々がパソコンゲームに興じるという、コメディ要素を基本にしながら、ゲーム対戦・戦略もの的なジャンルに舵を切った話数である。

    それよって呼び込まれたのは、通も思わず唸る渋いセレクトのクラシック曲(ラヴェル「ダスニフとクロエ」ショスタコーヴィチ「交響曲第7番」チャイコフスキー「交響曲第4番」)とその遊び心溢れる使用法であった。


    第6話にも関係するが、こういった、それとすぐにわかる質感を持ったクラシック曲が劇伴として潤滑油なしにいきなり作品の世界観にフィットするのは、普通は難しいものであると思う。

    事実、本話数においても、クラシック曲の使用は、登場人物達がゲームの世界にトランスポートされた想像上のシーンにおいて、あくまで遊び心ある演出としての括りの中で成立している感じが(物語後半までは)強く、それはやはり現実の通常シーンで流せば明らかに違和感が醸し出されるだろうという質感を持っている。

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    ©2006谷川流・いとうのいぢ/SOS団

    そこで(おそらく)鶴岡氏、が採用した演出は、ゲーム内の想像上のシーンでは、ショスタコーヴィチのクラシック曲がそのままの質感で流れ、現実のシーンに戻れば、そのモチーフがゲームのピコピコ音に変わる(これがハルヒという作品の世界観に合っていて実に効果的である!)というような遊び心溢れるものであったのだが、これは本当に見事である。


    しかし、ここから更に先があるのがハルヒの凄いところであり、それを生み出すのが作品の肝となる特別な設定、つまり何らかの「非日常性」である、というところについて説明を続けよう。

    ゲームがSOS団の劣勢の様相を呈し始めた物語の局面において、本話数では、情報統合思念体である長門有希の超人的なパソコン処理速度と普段見せない感情的起伏が、何らかの「非日常性」という役割を担い、それがミラクルな音楽演出を呼び込むのである。

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    ©2006谷川流・いとうのいぢ/SOS団

    キョンの呼びかけで長門に「勝ちたい」という閃くような感情の起伏が芽生えるクライマックスシーンにおいて、これまでゲーム内の想像上のシーンでしか鳴ることが許されなかったクラシック曲――ここでは、チャイコフスキー「交響曲第4番」が現実のシーンでもそのままの質感で流れ始め、それがそのままゲーム内のBGMとしても引き継がれていくことで非常に大きなカタルシスが生まれる。

    長門有希が担う「非日常性」が物語にもたらす起伏を利用することで、本来そのままではフィットしない質感を持ったクラシック曲を作品の血肉として完全にわがものとして取り込み大きなカタルシスを生み出すのに成功するというミラクルな演出。

    渋い曲セレクトも含め、鶴岡陽太氏の本話数におけるクラシック曲を用いた巧みな演出には脱帽するしかない。




  • Ⅴ 涼宮ハルヒの音楽(演出)Ⅲ

  • 繰り返し演出と永遠のサントラ~

    多彩な音楽(演出)を呼び込みミラクルな音楽的瞬間を作るハルヒメソッド。

    これはいわば、本作品が非日常側に振れた時に顔を出す「動的」な音楽演出ともいえるものだが、それと対をなすように存在する本作品においてもうひとつ大事な音楽の在り方――先にも少し述べた、常時安定した面白さを作る、というところに関わる本作品の基礎体力にあたるような「静的(でありながら刺激的)」な音楽演出について見ていくことにしよう。

    右を向けば朝比奈ミクルがハルヒに羽交い絞めにされている光景があり、その背後では本来の用途からすればシリアスな場面で使われるはずの弦の曲が対比的に流れる(第1話、朝比奈ミクル初登場シーンにおけるその名も「悲劇のヒロイン」)。

    左を向けば相変わらずのマイペースで無機質な返答でもって笑わせてくれる長門有希が居る。

    そして、強気でドSでわがままで傍若無人で破天荒なまでに好奇心旺盛な、様々な「いつものハルヒ」が姿を現せば、そんなハルヒのイメージにドンピシャでフィットする楽曲群(例えば、その名も「ザ・強引」「何かがおかしい」……等)がここぞとばかりのタイミングで流れ出す。


    まるで漫才のかけあいのように、ある種のシーン、キャラクター、イメージと強固に結びついた楽曲が映像とセットで次から次へ畳みかけるように投入されることで、物語に心地よい刺激やリズム感、安定感、安心感が生まれる。

    こうした同じ楽曲の繰り返し使用による積み重ねが涼宮ハルヒという作品の世界観、面白さをさらに強固なものにしているといえるわけであるが[5]、ここでの音楽の作品への貢献の仕方は、なかば無意識に視聴者に作用しているという点で先の日常BGMと非日常BGMの住み分けに近いカテゴリーの演出といえるかもしれない。


    TVシリーズのアニメ作品においては、限られた数の劇伴の中でやりくりしていくため、ある決まった楽曲を繰り返し使用する、というのがひとつ定番の演出法としてあると思う。

    これにはもちろん「節約」という側面はあるにしても、ある楽曲が繰り返し使用され様々な意味合いを持つシーンと掛け合わされていく中で、その楽曲が多様な色合いや意味合いを持ち始め、作品にとって(も視聴者にとってもただの一劇伴という枠を超えた)かけがえのない大きな存在へと成長していく、ことはよくあることである。

    このような音楽の在り方が、音楽、作品、視聴者という三つの関係性を互いに非常にインタラクティブなものにするようにも思うのだが、こうした音楽と深く結びついた独特の作品体験ができるのが劇場版等とは少し趣の異なるTVシリーズのアニメ作品ならではの醍醐味のひとつともいえるだろうか。


    そのようにしてかけがえのない大きな存在へと成長することが出来た楽曲というのは、仮に作品の放映が終わってからも視聴者の脳内で、その作品中に存在するあらゆる要素と結びついて、それらを伴奏する永遠の音の記憶のようなものとして生き続けるように思う。

    こうした作品との深い関係性を持った劇伴(のあり方)、演出に対し、永遠のサントラ(化)というワード、視点を提案してみたい。


    ある劇伴曲を聴いただけでその作品の名シーンが脳内に鮮やかに甦ってくるといった経験は少なからず一度や二度誰にでもあることだと思うが、この辺を考えても、劇伴というものが、単にある作品の特定のシーンを伴奏するだけの作品の一瞬の構成要素にとどまるものではないということがいえよう[6]

    作品との幸福な出会いをもった優れた劇伴曲は、作品と決して切り離せない密な関係性を保ちながらも、時として作品とは独立して永遠に生き続けるほどの力も持ちうるもうひとつの物語といえるような大きな存在であるのではないだろうか。


    このような視点で考えれば、ハルヒという作品における、あるイメージやシーンと結びついた楽曲を繰り返し使用する演出というのは、この永遠のサントラ化を強烈に推し進めるようなものだった、とみることもできるだろう。

    事実、「いつもの風景」を筆頭に、本作品を彩った数々の音楽は自分の中で確実に永遠のサントラ化している(きっと、老人になっても「いつもの風景」の旋律を忘れることはないだろうし、今回のサントラ公式発売は本当に嬉しい限りである)。


    ある決まった楽曲を繰り返し使用するTVシリーズのアニメ作品における定番手法、の中でも本作品におけるそれの徹底ぶりと効果の大きさには他作品と比べて一際目を引く強烈なものがあると思うのだが、先の話の続きでいえば、やはり多彩な演出を取り込める本作品の優れた物語構造・設定がそのような徹底した繰り返し演出を実現可能にした、ということができるだろう。


    ハルヒのこうした音楽演出に近い作品で他に何があったかを考えると、とりあえずすぐに浮かぶところでは「化物語」「四畳半神話体系」といった作品が挙げられるだろうか。

    「四畳半神話体系」は音響監督が木村絵理子氏、音楽が大島ミチル氏であるが、「化物語」は鶴岡氏と神前氏というハルヒコンビによる仕事である。

    「化物語」でも、やはりハルヒ同様のアプローチによって(もちろん曲想は随分異なる)、音楽は作品に対し非常に高い貢献を果たしており、例に漏れず永遠のサントラ化がなされた作品であったと思う。

    「化物語」の劇伴が良い、という話は最近でもたまに目にするし、サントラの売り上げもアニメサントラという小規模な市場にあってはかなり好調なものだったと記憶している。


    「化物語」に「涼宮ハルヒの憂鬱」――この二作品での仕事ぶりを見るだけでも、鶴岡陽太氏(ともちろん神前暁氏)のその高い手腕を窺い知るには十分だともいえそうだが、ある楽曲を繰り返し使用する定番演出法において、鶴岡氏のそれは、他の音響監督のそれとは一線を画するものであるという印象がある。


    鶴岡氏に関する資料があまりにも少なすぎるため、なかなか確証のある発言ができないのが残念なところであるが、ひとつ、氏が音響監督を担った同じく京都アニメーション制作による「響け!ユーフォニアム」(以下ユーフォニアム)のオフィシャルファンブックの中に、氏の繰り返し演出について音楽プロデューサー・斉藤滋氏が語った興味深い発言があるので、それを引用し少し考察してみたい。


    「響け!ユーフォニアム」の音楽演出~

    <この作品(ユーフォニアム)は劇伴の曲数が少ないんですよ。1クールのアニメだと最近は多くて40から50曲いくことがあるんですけど、本作では30もないですから。アニメをご覧になってきづいた方もいるかもしれませんが、似たシーンでは同じ曲を何度も使っているんです。そうしたのは、鶴岡さんが最終話に向けてどれだけのイメージを積み重ねられるかというのを気にされていたからなんですね。それを観ている僕らは知らないうちにすり込まれて、どんどん積み重ねられて、だからこそ最終話でその音楽が流れただけで感動してしまう。いわゆるパブロフの犬のように、特定の曲が流れたら感動するスイッチが発動するように作られている感覚がありました。曲数をいっぱい使って飽きさせないやり方もありますが、今回そうしなかったのは、曲の効果を最大限に生かすための工夫なんです。>
    (「響け!ユーフォニアム」オフィシャルファンブック、100頁)


    この斉藤氏の発言は大変興味深いものであるが、これはそっくりそのままハルヒにおける音楽演出にも当てはまるものであると思う。

    ユーフォニアムにおいては、「運命の流れ」という楽曲(のモチーフ)が、作品を象徴するものとして繰り返し使われていたが、この楽曲は本作品のテーマにある青春――というと、やはり甘酸っぱくてほろ苦い、一言ではいい表せない宙に浮いたような思春期特有の複雑な感情を伴うものであると思うが、それを見事に表現した実にアカデミックな曲である。

    ユーフォニアムにおいてはまさにこの曲がハルヒにおける「いつもの風景」と同じ役割――つまり、軸曲として大きく作品に貢献していたわけである。


    「最終話でその音楽が流れただけで感動してしまう」という斉藤氏の発言の補足をするとすれば、作品全編にわたってかけがえのない青春の1ページ的場面を何度も彩ってきたこの楽曲がクライマックスで流れることで、映像によって過去の思い出のシーンをフィードバックするといった演出を挟まずとも、音楽のみの喚起力によって走馬灯のように過去のシーンが甦るというわけである。

    つまり、この曲も「いつもの風景」と同じ――作品の放映が終わってからも、青春そのものといえる本作品の全てのシーンを伴奏しながらわれわれの心の中で生き続ける永遠のサントラということであると。

    繰り返し同じ楽曲を使用するという演出法の中においても、ハルヒでは尊い日常を象徴する楽曲を、ユーフォニアムでは青春の1ページを切り取ったかのような楽曲を中心曲に据える、というように、作品ごとのテーマに合わせて演出方針には細かな微調整が加えられるわけである[7]


    そして一回性演出の第6話へ~

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    ©2006谷川流・いとうのいぢ/SOS団


    対比の妙――ハルヒにおいてはこの言葉がつくづくあらゆる局面において重要なキーワードになっていると思えるのであるが、楽曲の繰り返し使用による演出が冴えれば冴えるほど、それと対比するように一回性を持った劇伴の演出法というものも必然的に大きな効果を上げることになるのである。

    この演出が特に効果的であった代表的な話数を挙げるとすれば、第5話「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅴ」、第6話「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅵ」、第19話「エンドレスエイトⅧ」、第26話「ライブアライブ」、そして先の第27話「射手座の日」、あたりになるだろうか。


    5話では、2分以上にわたってハルヒが神妙な面持ちで幼少期の体験について語るシーンにおいて、本シーンのみ使用のピアノソロ曲「ハルヒの告白」が、彼女の心情を的確に表しながらそっと寄り添うようにこの印象的な場面を効果的に演出する。

    19話、エンドレスエイトの長い長い、長い(笑)ループから遂に抜け出すクライマックスのシーンでは、「流麗なる巻き戻し世界」「舞い降りた解答」「日常であることの幸せを」とやはり全てこのシーンのみ使用の一回性を持った楽曲でつながれる演出によって、ハルヒ全話数中でも屈指のとてつもないカタルシスが生み出される

    「流麗なる巻き戻し世界」は、フィルムスコアリング的にまさにこのシーンのためだけに書き下ろされたピアノ曲であるが、極めて劇伴効果の高い素晴らしい楽曲である(半音が肝になっているのだが、その使い方の巧さは脱帽してしまうレベル)。


    エンドレスエイトでは、他にも、「エンドレスなる月光」「不変の心のはずだった」「天体観測」「入道雲と紙ヒコーキの関係」といった具合に、映像に対し大きな貢献を果たしている秀逸なピアノ曲が目白押しである。

    上述の「ハルヒの告白」、それから第8話「笹の葉ラプソディ」で印象に残る「短冊の向こうに」なども挙げられると思うが、神前 暁氏によるこれらのピアノ劇伴は、他の作曲家の優れた仕事を思い浮かべてもトップクラスのものであるといえるだろう。

    繰り返し演出との効果的な対比も大きいが、「流麗なる巻き戻し世界」「ハルヒの告白」といった、全話通じてわずか一回使用されただけの楽曲すらもその印象的なシーンの記憶とともに永遠のサントラ化してしまうのだから、本作品の音楽(演出)の素晴らしさには本当にただただ脱帽である。


    そろそろ本題の第6話の話に入っていきたいが、一回性を持った劇伴の演出法が冴え渡った話数の中にあって、そのとてつもないカタルシスと壮大なスケール感で頂点に君臨するといえるような存在が第6話「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅵ」である。

    それは、冒頭でも述べたように、涼宮ハルヒという作品を代表する話数、であるにとどまらず、アニメ史に刻まれる話数でもあろうと。



     

    [5]例えば、「ザ・強引」は、全話通して計9回という「いつもの風景」等と並びその使用回数の多い楽曲である。この辺の各楽曲の総使用回数については以下の表を参照のこと。ハルヒアニメ各話使用劇伴リスト

     

    [6]もちろん、永遠のサントラ化していなくても、一瞬の構成要素としてそのシーンで大きな貢献を果たす劇伴の在り方もあるし、永遠のサントラ曲(を持つような作品)が絶対的に良いというものではないけれでも、あくまで個人的な経験則からいえば、そのような作品というのは高い確率で記憶に残る良い作品である、というのはいえそうである。
    ある作品について思いを巡らせる時、そこに永遠のサントラ化した楽曲があるのか? ないのか?というのはその作品を考える上でひとつ面白い視点だとも思う。

     

    [7]オフィシャルファンブックでの音楽担当・松田彬人氏のインタヴューによれば、松田氏が鶴岡氏の発注を受けて最初に取りかかったのは、本作品のメインテーマである「はじまりの旋律」という曲だったそうである(この曲は第1話のアバンで流れるのが早い時期にすでに決まっていたそうだ)。
    その時の鶴岡氏の発注は、森羅万象の源となるような決定的な曲、というなんとも凄まじいものであったそうだが、ここで鶴岡氏が松田氏に求めたのは、ハルヒでいうところの「いつもの風景」にあたるような、作品を代表する軸となる楽曲であったのではないだろうか。
    ただし、実際にその役割を担うことになったのはメインテーマではなく「運命の流れ」の方であったと……。
    松田氏の別の発言、「8話が放映された頃に、劇伴の追加発注があったんです。オンエアされているアニメを観ていて「運命の流れ」という曲をけっこう使っていただいていた印象があったので、あえてその曲を匂わすようなものを作ってみました」(オフィシャルファンブック、100頁)からは、この楽曲が頻繁に使われたことが松田氏にとって少し意外だったということが読み取れる――つまり、最初の発注の段階においては、この曲がそこまでの重責を担うようになることを、鶴岡氏も松田氏も想像してはいなかったということではないだろうか。
    メインテーマよりも作品にフィットする楽曲が予想外のところから上がってくる――それが鶴岡氏のこれまでの経験、才能、閃きによって拾い上げられ、そして、それを中心に演出プランを組み立てていった……。
    音楽と作品の出会いは奇跡的、という先の話にも絡むが、とかくアニメ制作(における音楽演出)の現場ではこのような奇跡がいくつも生まれているのではないか、という妄想を膨らませずにはいられない(ちなみに、メインテーマももちろん素晴らしい楽曲であるのだが、その曲想は、青春というものの表現としては少し直球すぎる印象もあり、鶴岡氏が「運命の流れ」の方を軸曲として選択したのには個人的にも納得できるところであったりする)。


    余談だが、ユーフォニアムのヒロイン・黄前久美子の、その従来のアニメ作品における定型的ヒロイン像から逸脱した特異で斬新なキャラ造形は本作の大きな魅力のひとつでもあったと思うのだが、久美子が自宅の自室で完全にはめをはずし、また家族の前では普段学校で友達に見せるものとは違う安心しきった声音や表情を見せる、のに対し、ハルヒは不思議で未知なる生物であるかのようにキョンの視点から観察されるという体で徹底して描かれる。
    放課後になってハルヒと別れれば、その後彼女が一体どこで何をしているのか、どのような家に住んでいて、部屋はどういう感じ、家族はどういう人なのか――といった生活感のようなものは一切が謎のヴェールに包まれている。
    完全に脇道にそれる内容だが、この同じ京アニの2作品におけるヒロイン像の違いは至極対照的であって興味深いものである。




  • Ⅵ 「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅵ」の音楽(演出)

  • まずはマーラーが流れる最大の音楽的シーンに至るまでの各シーン、あらすじを簡単に見ていくことにしよう。

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    ©2006谷川流・いとうのいぢ/SOS団


    定番曲「いつもの風景」とともに、いつもの朝の風景で物語は始まる。

    OP曲なしでいきなり本編が始まる(そしてED部でOP曲を流す)最終回定番の演出は、スタート時点で視聴者に高揚感を持たせる上でやはり効果的だ。


    この時点で、この後あのような最悪の非常事態が起こることをキョンも、そしてわれわれ視聴者も誰も予想できないだろう、というぐらいに平和な雰囲気が漂っている。

    ここには、この後起こる非常事態をより効果的に見せるために、あえて最初に平和な雰囲気を殊更視聴者に印象付けている、という意図も多分にあるだろうが、そのような意図において、「いつもの風景」という音楽がもたらす耳からの作用は、無意識レベルであっても確実に視聴者に作用するものとして大きく貢献しているといえるだろう。

    この後も、いつもの登校風景、友人とのたわいもないやりとり、そして部室でのSOS団のいつもの風景、と話は穏やかに続いていく。

    それに対して劇伴は、「うんざりだ」「何かがおかしい」「ある雨の日」という流れで、ある特定の雰囲気、役割を持ったシーンに連動するようにいつもの楽曲が鳴る、という定番ルーティーンを踏襲した繰り返し音楽演出で対応する。


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    ©2006谷川流・いとうのいぢ/SOS団

    朝比奈さんとキョンのこのシーンにおける嫉妬(?)がハルヒのフラストレーションレベルを一気に引き上げるトリガーとなってしまったということだろうか――この後、何の前触れもなく平和な日常は突如終焉し、ハルヒ史上最悪の非常事態が訪れる。


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    ©2006谷川流・いとうのいぢ/SOS団


    この風景は閉鎖空間……しかし、だとしたら何故隣にハルヒが居るのだ……


    キョンのこの時点での思考はこのようなものだったのではないかと思うのだが、閉鎖空間においてそこに居るはずのないハルヒが居る――ここで、キョンだけでなく視聴者であるわれわれもいつもとは違う非常事態の気配を感じとる。


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    ©2006谷川流・いとうのいぢ/SOS団


    アダムとイブ――二人だけしかいない殺伐とした無人の学校風景――このような異常事態に遭遇した涼宮ハルヒはやはり好奇心でその目を輝かせていた……。

    そう、これまで実際に異常事態に遭遇してきたのは常にキョンであって、その異常事態を作り出した張本人であるハルヒが直接そこに立ち会うことはほとんどなかった。

    宇宙人や謎の転校生といった非日常に誰よりも強い好奇心を持っていたハルヒが、遂に念願である非日常の、しかも最大級の異常事態に立ち会っている――そう考えてここでのハルヒの反応や表情をあらためて見てみると何かとても感慨深いものがある。

    このように幸せで顔を輝かせるハルヒの表情が見られる第6話というのは、全話数の中でもやはり特別な回であるといえよう(しかし実に良い表情、素晴らしい作画である……)。


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    ©2006谷川流・いとうのいぢ/SOS団


    緊迫した状況が続く静まりかえった部室で鳴り響くお茶を立てる音。

    SOS団のいつもの風景、安堵感の象徴ともいえるお茶を立てる音を異常事態の中で鳴り響かせるという見事な対比演出によって独特の雰囲気漂う光景が浮かび上がる。

    異常事態だからこそあえて心を沈めてこれからの対処法を冷静に練らなければならない――いつもと変わらない平静を装っているかに見えるキョンだが、その内心では、ハルヒが閉鎖空間に居るという極めてまずい状況に不安を募せていたはずだ。

    そして、古泉の登場とともに告げられる「世界崩壊の危機」によってキョンの不安は的中、いよいよハルヒ史上最大の危機がその姿を現す。


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    ©2006谷川流・いとうのいぢ/SOS団


    そんな中、今度は、長門との唯一の接触ツールであるPCの起動音がこの危機的状況で鳴り響く。

    PCの起動音という普段は何でもない騒音がここでは一筋の希望の象徴、あるいは救いの福音のように鳴り響く。それによって、画面には極度の緊張感が描き出され、われわれ視聴者はいい知れぬ高揚感で心の中を満たされ始める。

    音楽は一切使わずこうした何気ない日常の生活音を用いてこれだけ効果的な演出をしてみせる――ハルヒという作品は音響面においても実に素晴らしいクオリティを持っているが、6話は鶴岡氏のそうした音響面における高い演出手腕が如何なく発揮された回でもあると。


    そしてハルヒの憂鬱、破壊願望が生み出した巨人が姿を現し、ここでいよいよハルヒ史上最強の非日常BGMであるマーラー交響曲第8番「千人の交響曲」第1楽章が奏でられ始める。


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    ©2006谷川流・いとうのいぢ/SOS団


    オーケストラピットのマーラー交響曲第8番~

    世界崩壊の一歩手前までさしかかるというハルヒ史上最悪の非日常が描かれた第6話のクライマックスシーンを演出するにあたって鶴岡氏が劇伴曲として選択したのはクラシック曲であった。

    こちらのサイト(http://www003.upp.so-net.ne.jp/orch/page108.html)で既に、先の「射手座の日」も含めて、第6話の本シーンにおけるクラシック音楽に関する非常にマニアックで興味深い考察がなされているので、今回自分としてはここで語られていない側面から話を進めていきたいと思う(ここのサイト主さんの凄まじいクラシック知識にはとても叶いません……)。


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    ©2006谷川流・いとうのいぢ/SOS団


    最大のクライマックスシーンの演出に関して、これまでの徹底した同じ曲の繰り返し演出があったからこそ、ここでの一回限りのマーラーの使用がより強烈に鳴り響いた、というのは先に指摘した通りである。

    男性コーラスをそのイメージの核とする閉鎖空間での神人のBGMと、圧倒的なスケールの合唱が内在するマーラーの間には連続性と一貫性のある演出プランを見出すことができるという話もあった。

    また先の、劇伴と作品との複雑な関係の話でいえば、ここでのマーラーの使用は、単体として聴いても十分に力のある楽曲が映像にもその力を分け与えた好例であるともいえよう。

    壮大、荘厳――圧倒的なエネルギーを単体で放出するマーラー交響曲第8番の力はさすがクラシック、というところであるが、このような力のある曲を映像と合わせることで何も生まれない、などということはまずありえない――そこには、互いに主張しあう拮抗した大きな力のせめぎ合いや異種の文脈が出会うことによる化学変化であれ、雰囲気の奇跡的な一致による絶妙なフィットであれ、何らかの大きなインパクトがもたらされるはずである。


    ただ、クラシック曲がいくら単体として大きな力を持っているからといって、何らかのワンクッションや工夫を挟むという潤滑油なしにそれが劇伴として作品固有の雰囲気にすんなり溶け込むケースは少ない、というのは「射手座の日」のところでも述べたとおりである。

    クラシック曲の劇伴使用にあたって最大の障害となるのは、クラシック曲がもつそのクラシックらしさ、ということになるだろうか。

    一聴してそれだとわかる曲想や雰囲気――それは、クラシック曲が、その管弦楽法や和声や旋律における伝統的書法によって避けられないものとして身に纏っているものだが、このクラシックらしさが、映像の劇伴として使用する際に大きな障害になると。

    つまり、クラシック曲を劇伴として使用することによって、何故ここでその曲を使用したか、といった純粋な劇伴効果以外の様々な意味合いがそのシーンに良くも悪くも付随してしまうケースがほとんどだからである。


    例えば、「新世紀エヴァンゲリオン」というあまりにも有名な先行例がある今、ベートーヴェンを使用すれば、そこには少なからずエヴァの影がちらついてしまう。

    なので、もしベートーヴェンを使うのであれば、そういった先行例によって築かれた文脈を踏まえる必要は少なからずあるだろうし、ともかく、シーンに避けられないものとして付随してしまう何重もの意味合いを吟味、精査した上でその曲を使用するか否かの決定を下す、という慎重な判断が求められだろうということである。


    こういった煩わしさを考えれば、劇伴作曲家が、クラシックらしさの漂わないあくまでその作品の世界観のみに寄り添った音楽的細胞で構築した楽曲、それでいてクラシックにも引けをとらない荘厳さをもつような曲を作ることができれば何の問題もないし理想的である。

    しかし、クラシックの荘厳さに匹敵する楽曲を作ろうなどということは並み大抵の作曲家ではほぼ不可能に近いことだろう。

    劇伴として物語全編にわたって大々的にクラシック曲が使用された「銀河英雄伝説」という作品のように、作品がもつ世界観の肌合いとクラシック曲のそれとが、様々な別の意味合いを生むことなく絶妙にフィットするケースもあるが、それはやはり極稀であるということになるだろう。

    大抵の場合は、クラシックを劇伴として使用すれば、そのシーンには、異質な文脈同士の出会いによって起こる化学変化から独特な雰囲気、意味合いが付随してしまう。よって、それを成立させるためには、少なからず何らかの演出上の工夫、ワンクッションが必要になるのである。

    しかし、その何重もの別の意味合いが作品にとってプラスになる要素としてシーンが成立できるとなれば、クラシック曲の劇伴使用は他のなにものにもかえがたい高い効果をそのシーンにもたらせてくれるだろう。

    第6話のこのシーンを見る限り、もちろん、まず第一にあるのは、マーラーのクラシック曲が純粋にシーンにもたらす圧倒的な劇伴効果の高さであるが、その他の諸々の意味合いも作品にとってプラスに働いている、と少なくとも自分の目には映る。

    例えば、ベートーヴェンという大胆で直球的な選択をしたエヴァの先行例に対するアンサーとしてのマーラーという様々な意図に基づく渋い曲選択を行ったことの価値(先行例と比較した場合の意味合い)、マーラーという意外性を持った曲選択の中でその大曲を作品の血肉として取り込むことに見事成功してしまったという鮮やかな事実が作品にもたらしてくれるさらなるプラスのイメージ(映像作品における劇伴演出の歴史・文脈から生じる意味合い)――など、色々と挙げられるかと思う。

    多彩な音楽演出と幅広いジャンルの音楽を取り込める豊かな土壌を持った作品――という先の話でいえば、いかなるジャンルの音楽をも取り込んでしまう設定の奥行の深さ――の中で、ここでは平和な日常から世界崩壊までの触れ幅の大きさがマーラーの取り込みをも成功させた、ということになるのだろう。


    世界崩壊という作品中最大の触れ幅に対して、それに負けないスケール感とテンションを備え、かつ映像とのファーストコンタクトにおいては、作品本来の世界観の肌合いにはすんなりフィットしない異物のような新鮮さをもってわれわれの心をえぐるように鳴り響き、しかし最終的には作品の血肉となるマーラー「交響曲第8番」――それは、本作品においてまさに最強の非日常BGMというにふさわしい楽曲である。


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    ©2006谷川流・いとうのいぢ/SOS団


    しかし、巨人の登場から王子の口づけに至るわずか4分弱のシークェンス――マーラーの壮大な音楽を背景に際限なく上昇していく映像と音の熱量、エネルギーの凄まじさは、あらたて、圧倒的である。

    冒頭でも述べたように、物語、セリフ、映像、音響、音楽……画面に存在するありとあらゆる要素が互いに及ぼし合い、また渾然一体となってエネルギーを高めていきながら、口づけの瞬間の一点においてその最大量を一気に放出させる。


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    ©2006谷川流・いとうのいぢ/SOS団


    キョンとハルヒの徐々に熱を帯びていく掛け合いはさながら舞台の鬼気迫る二人芝居を見ているようでもある――舞台の上部背面にはキョンの脳内で何分割にも増殖するハルヒのイメージを次々と映し出す特大のスクリーンがあって、また劇場舞台下のオーケストラピットでは、楽団員達による生の迫力ある演奏によってマーラーの壮大な音楽が最高の臨場感を持って贅沢に再現される……。

    あるいは、どうだろう、仮にこのシーンのセリフを抜いて白黒調にしてみても、それはオーケストラピットでの生演奏によって、劇場で鑑賞する大昔の無声映画のような深い趣を持ちそうなものではないか。


    舞台作品のような、映画的な……このシーンを捕らえるための言葉を探す旅はまだまだ続きそうである。



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    ©2006谷川流・いとうのいぢ/SOS団


    王子の口づけによって世界崩壊の危機を脱した物語はいつもの風景を取り戻す。


    そこには、ポニー・テールになった愛らしいハルヒの姿と、尊い日常がある。





    ■著者紹介

    ピアノナイク(@PIANONAIQ)と申します。
    アニメ(音楽)に魅せられて以来、劇伴というものについてあれこれ考えています。劇伴について面白く語るのは難しい!というのをあらためて痛感しましたが、ハルヒ(の音楽)に対する長年の思いの丈を書き綴ることがある程度はできたかな、と。今回、ハルヒ全話劇伴レヴューという、劇伴というジャンルにおいては画期的で意義深い企画に参加できたことを光栄に思います。他のレヴュワーさんの文章、そして遂に念願叶って発売されるわたしたちの永遠のサントラ「涼宮ハルヒの完奏」を楽しみにこれからも生きていきます。

    ■ハルヒシリーズで好きな劇伴曲

    「いつもの風景」
    「流麗なる巻き戻し世界」
    「好調好調」(仮)

      

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