ハルヒ劇伴レビュー

サウンドトラック発売をお願いする涼宮ハルヒファンのプロジェクトの活動報告
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みなさん、こんにちは。Takashiと言います。今回は涼宮ハルヒの劇伴発売をお願いするプロジェクトにお誘いを受け、劇伴レビューをしていく企画に参加させてもらった一人の涼宮ハルヒの憂鬱ファンです。よろしくお願いします。さて、早速ではありますが、書いていこうと思います。

2006年に涼宮ハルヒの憂鬱は京都アニメーションの制作でテレビアニメ放送を開始してから、2009年の放送2期、2010年の映画化、その他関連作品の放映や動画コンテンツにおいての流行と、一時代をリードする作品となりました。それ以降は下火となったコンテンツではあったけれど、放送開始から10年経った、2016年7月7日に新しいコンテンツが発信!それが今回のプロジェクトに関する涼宮ハルヒの憂鬱劇伴集、つまりサウンドトラックCD「涼宮ハルヒの完奏」です。

涼宮ハルヒの完奏~コンプリートサウンドトラック~

本文を書くにあたって、僕は評論文筆が得意じゃないので、文章としては稚拙ですが、一人の涼宮ハルヒの劇伴ファンとして徒然なるままに書いていこうと思います。そして混沌としすぎないように自戒と好きなもの宣言も含めて、このレビュー立ち位置と軸は以下のように設定することにします。


  • 【人間原理の立場から、高雄統子さんの演出と劇伴を考える】
  • これは、僕がアニメーション監督であり演出家の高雄統子さんをとても尊敬し慕っているからです。 実は、僕は中学時代以来少しアニメから離れていました。趣味としてアニメファンに返り咲いた作品がこの涼宮ハルヒの憂鬱であり、そこから京都アニメーションさんの魅力、とりわけ作品の魅せ方に薫陶を受けました。当初は石原立也さん、山田尚子さんをはじめ、監督たちの仕事と作風、そこから個々の演出家へと興味が向いていきました。あと、ここでいう人間原理というのは、 「世界は人間に適した形でそこにある、そうでなければ世界は観測されえないからだ」 という宇宙物理学の定理を少し言葉を変えたものを言いたいと思います。もう少しかみくだくと 「人間や人間関係がまず最初にあって、それが大切です!それ以外のことは二の次!」 といった感じでしょうか。

    この辺りのことについてはまた別の機会に委ねるとして、今回は涼宮ハルヒ劇伴発売祈願!と発売おめでとう!の祈願と成就にのせて引き続き涼宮ハルヒシリーズを応援していくべく、高雄統子さん担当回である第15話エンドレスエイトIVと第21話涼宮ハルヒの溜息Ⅱの感想的レビューを書いていきたいと思います。この記事は2本あるうちの1本目となりますので予めご了承ください。

    まずは2つの記事の総合的結論から書きます。


  • 【高雄統子は人とその世界を大切にする】
  • これです。2つ目の記事を含めて、以下に述べていくのは諸々紆余曲折などもあるかもしれませんが、結局これを言いたいのだとご承知おきくだされば幸いです。

    本論は1つ目の記事として15話について触れていきます。

    さて、いきなり仰々しく書きましたが、これは僕自身数多くはないにせよ、様々なアニメを観てきたなかでの一応の結論です。そもそもこのあたりを意識した作品は数が限られている気がします。もちろん人の内面を描いていく作品は少なくないのですが、そこに存在する全員に対して、細部まで洞察し、観察し、動くのを待ち、救済やカタルシスを描きドラマとして成立させることができるのは、ごく限られたものになってくるのではないかと思います。これら自体は快感原則やドラマ作りに則った作品作りからすれば必要になるものですが、いずれにしても難しい。少しでも手を抜けば一気に虚構へと陥っていってしまうのが常であり、とてもリスクが高くあります。また、アニメ制作における作画カロリーの問題とも向き合っていかなければなりませんし、展開によっては鬱蒼としたことから視聴者を手放すことにもなったりと、多くのアニメ作家たちはこれらのことに対してのバランスに心をくだいているのではないでしょうか。そういったなかで高雄さんは人間を描くときにはグロテスクなまでに内面を引き出し、徹底的に冷静な世界を描いてからドラマを淡々と組み上げていきます。コンテへのこだわりがすごいことは業界内でも言われているようですね。彼女は京都アニメーションを退職されてからアイドルマスターでシリーズ演出を、アイドルマスターシンデレラガールズでは監督とシリーズ構成(主に2期)を務めあげました。諸々のインタビューからも人間ドラマのあるアニメをやりたいと言っています。アニメーションによって生み出された世界やキャラクターたちを誰よりも愛しく思い、その世界や登場人物たちのために力を尽くしていく、そんな監督だと私は思います。

    涼宮ハルヒの憂鬱においては、2期にあたるエンドレスエイトIVと涼宮ハルヒの溜息IIの演出・コンテを担当しています。そもそも涼宮ハルヒの憂鬱2期は視聴者にとって挑戦的な構成であり、リアルタイム時には大きく賛否が分かれていました。特にエンドレスエイトで夏の2ヶ月の間同じ話を演出や制作陣を駆使して8回放映するという試みは波紋を呼びました。翌年に公開される涼宮ハルヒの消失への布石であったともされていますが、個人的にはそれと同時に石原監督の谷川流への懺悔もあるのかなぁとも思っていたりしています。今回その辺りは割愛。

    何故余談的にエンドレスエイトの話を入れたのかというと、8回も、言うなれば毎週毎週ハルヒをつけたら同じ話がそれこそエンドレスで放映されるという大きなミステリー感の中で、それでも視聴者を離さないように努力せざるを得ない京都アニメーション、特に演出陣の本気度合いが試されるということと、様々な批判を覚悟し、また演出家同士による比較もされやすくなることから浮き彫りになるものと対峙していく覚悟が見えてくるはず、つまり、これは製作陣全員がそれぞれの個性と全力で向き合った本気の作品ですよ、という辺りのことを頭の片隅に入れておいてもらえると諸々において多少の説得力になるのではないかと思ったからです。よろしくお願いします。

    さて、話題を高雄統子さんと劇伴に戻して本題に入っていこうと思います。

    この話数における劇伴に関する主張は【ドラマと日常を明確に分け、涼宮ハルヒシリーズの主体をハルヒからキョンへと移行する重要な鍵である】です。


  • 【アバン〜市民プール】
  • 劇中における音楽とは、基本的にはそもそもそのシーンが表す感情や情感を補足し助長する力がありますよね。逆に考えていくと、使用をしないという選択肢もある訳です。エンドレスエイトⅣをみていくと、アバンからAパートのプールサイドで長門にデジャビュを感じる直前のシーンまで劇伴はほとんどつけられていません。全8話中5話分はこのシーンまでに何かしらかの音楽がつけられています。厳密には市民プールのシーンから【ビーチバカンス】がつけられていますが、後述もしますがこれはドラマに沿う劇伴としてはカウントしなくて良いでしょう。限りなく音量バランスがおさえられています。ここで2期のために作られた【庶民プール】ではなく、1期で用いられた【ビーチバカンス】を選んだのも後述しますが日常視点からだと思います。以下の写真にある、古泉がキョンと二人でハルヒの行動を振り返るシーンから【観測者の目に映るもの】がようやく劇伴として入ってきます。ピアノ高音域のアルペジオ(ポロロロンと和音の音を順番に素早く弾き流すもの)から曲が入ってくるので、ここでようやく私たちは無意識にハッとします。あ、始まる、、、と。

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    ©2007,2008,2009 谷川 流・いとうのいぢ/SOS団

    そしてこのキョンと古泉のカット自体がワンカット挟みつつ長回しとなることによって、私たちは音楽に乗せて語られる古泉のハルヒ観と既視感に集中させられていきます。次のカットから市民プールでの出来事を客観的に捉えていくシーンが数カットありますが、そこでもこの【観測者の目に映るもの】は継続して流れます。この曲は長門デジャビュシーン直前で終わりをむかえ、SEと共にキョンは長門やハルヒとの既視感と向き合っていくこととなります。アバンにおいても既に既視感との対峙はコンテとして描かれてはいますが、劇伴やSEが乗ってくるこのあたりがいよいよエンドレスエイトIVの始まりを予感させますね。

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    ©2007,2008,2009 谷川 流・いとうのいぢ/SOS団


  • 【喫茶店〜セミ捕り合戦】
  • さて、次のシーン、夏の打ち合わせ@喫茶「夢」においてはいつもの【ティータイム】がかけられています。これは定番の選曲ではありますが、他の演出家では別の曲をつけてもいますね。なぜ高雄さんがこれを選んだのか、それは先ほどの【ビーチバカンス】同様、できるだけ自然な日常を表したかったからの選曲ではないかと思っています。つまり喫茶店でかかっている音楽として。これは音楽自体も喫茶店のスピーカーから流れるように構成されています。仮に先ほどのプールで【庶民プール】が流されると、それは「プールに遊びに来ている、楽しく謳歌しようとしている」という楽曲の持つ意図が押し出されるドラマにつける音楽の形となり、そもそもアバンから無音で展開されていく緊張感を破ってしまい、演出の軸を崩してしまう。【ビーチバカンス】であれば、実際にプールでかかっている音楽としても違和感がなく、音量バランスにさえ気をつければ緊張感は保たれ、且つ5人にとって今までにも経験ある、いつも通りの日常感が出されるのではないかと思います。要するに、【ドラマとしての音楽をつけるのか、あるいはそこにある音楽をただ再現するのか】の違いです。

    さて、喫茶店を出たキョンは無意識にみんなの嫁長門を呼び止めます。ここで流れるのは【溶け落ちる記憶回路】。

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    キョンが自転車のロックを外し帰宅をするという何気ない一幕ですが、彼は劇伴に導かれるように無意識に長門を呼び止めます。これは記憶の残滓がそうさせたのでしょう。演技を見ればそう感じます。先ほどまでは既視感があったとしても実際の行動にまでは現れませんでした。しかしここではついにキョンの持つ記憶の残滓が彼の行動に影響を及ぼし始めます。そういった目に見えないものの力に翻弄される不気味さと無意識下にある戦慄を、この音楽のミニマル感(音の動きを最小限に抑え、一定のリズムや音をひたすらに反復していくもの)は非常によく表していて、観ている私たちもそのミステリアスな世界と内側から忍び寄る得体の知れぬ恐怖へと誘います。記憶が溶け落ちることによって現れるその残滓がこのシーンのキーワードです。しかしそれらのすべてを記憶している、言い換えれば残滓などない長門は一体どのような気持ちで彼の行動を捉えていたのでしょうか。。。そしてその感情を抑制するように低音パートの動機と音楽のベースを表すリズムがアニメ上では音響として極端に抑えられています。。。

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    ©2007,2008,2009 谷川 流・いとうのいぢ/SOS団

    この話数において重要な入道雲と向き合った後、場面は盆踊りへと移っていきます。ここでハルヒに黒い浴衣を着せたの最高!!と、感情的脱線も含みつつ(笑)劇伴もそのまま「盆踊り」です。先ほどの考察と同じく、ドラマのための音楽ではなく、会場で流れている音楽です。

    夏休みの宿題の下りも終えると、続いてはセミ捕り合戦。これはこの話数において実に爽快感と安心感をもたらしてくれる楽曲となっています。ようやく安心できる感じ。高雄さんの回は一つ一つに情報量が多くて観るのが大変(汗)。実際にセミ捕り合戦以降のバイトシーンでも活用され、純粋に高1夏青春の一幕を鮮やかに表現しています。まるでエンドレスエイトなど忘れているかのように。

    ・・・しかし、その直後に音楽は消失し一気に物語の核心に迫る真夜中のミーティングシーンへと移ります。


    • 【真夜中のミーティング】
    • 前半は無音で構成され、夏虫の鳴き声だけが響きます。ここでBパートに移りますが、そこからセミの鳴き声が主体となります。コンテの中にもセミが映り込んできています。いよいよ古泉の解説が始まると【ループの真実】がかかる。これはピアノ一台で演奏され、最低音域と最高音域が交互に、そして同時に奏でられミステリー感を助長する音楽構成です。中音域が限りなく排除され、あるいは出てきても基本的には分断され、地にへばりつかされるような低音域と、緊張感と警鐘を鳴らすような高音域の表現が始終展開されるので、音楽としての閉塞感を存分に発揮しています。音楽とともにこの地面に這いつくばるセミもその閉塞感を助長していると言っていいでしょう。

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      古泉の語りが終わり、長門にその事実を確認するところで音楽は終曲、また夏虫の鳴き声のみになります。

      そして長門が15513回目の夏であるというその事実を展開する際【ミステリアスオルゴール】が流れます。このことによってオルゴールのエンドレス感や無機質な切なさ、そして終わりには止まりゆく運命が再現されていると思います。実際に劇伴の終曲は解決しない音で締めくくられ、さらにテンポダウンが施されて終わります。そこでキョンはようやく長門気持ちを考えるわけです。「長門、お前はいったい今までどんな気持ちだったんだ」と。

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    • 【天体観測〜映画鑑賞】
    • 天体観測ではハルヒが寝てから穏やかに優しく【エンドレスなる月光】がつけられます。劇伴のおかげもあり、このシーンは非常に穏やかに進行していきます。まるでどんな世界であっても、彼らは世界から優しく見守られているように。

      続くバッティングセンターでは、キョンは長門とどうして教えてくれなかったのかと対話をします。このシーンは無音で構成されます。それとはまったく別にハルヒは無邪気にバッティングに勤しむ。そこでホームランが出た時に一瞬現れる【ホームラン】は、これまでの記述通り、その場に流れる音楽として構成されます。ここまで徹底するからこそ日常と非日常、ハルヒとその他人物の次元感の違いが生まれるのでしょう。ハルヒが主体の一人として存在する場面においてドラマを構成するための劇伴は使われません。エンドレスエイトはもはやキョンの物語であるからです。

      怒涛の夏休み消化体制において高雄さんは映画鑑賞を選んでいます。流れる劇伴は【入道雲と紙ヒコーキの関係】。ここはハルヒが一人の主体として存在しているのですが、この劇伴と映画鑑賞、つまりこの話数における非常に重要な演出要素である、入道雲と紙ヒコーキを意図する映画と音楽によって、物語を徹底的にキョンのものとして引き止めています。この写真における構図はエンドレスエイト、ひいては涼宮ハルヒシリーズにおいて非常に重要なキョンの自己対峙となります。そして彼らの間に入道雲と紙ヒコーキを挟むことは、あくまで世界は客観性を保ち、且つキョンをありのままに映し出す鏡として機能することを意味するのではないでしょうか。入道雲に関する考察は別の機会に。

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    • 【夏休みの解散】
    • 最後に喫茶店でハルヒを引きとめようとするシーンでは様々な回想シーンと共に【数千回以上の思考】が再現されます。ほんの数秒ではあるものの回想とメタファーとしてのコンテとともに、とても鮮烈な印象を与えています。劇伴が不意に終わると無音のなか入道雲と紙ヒコーキの絵のもとにキョンの空白の思考が現れます。キョン自身の回答を待つように紙ヒコーキもだいぶ彼の思考を待ってくれていますが、この時の彼には気がつくことはできませんでした。この思考の先にあったのはハルヒとの断絶であったのではないかと感じさせるコンテ・演出運びでした。

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    • 【まとめ】
    • さて、以上のように劇伴と演出について振り返ってきましたが皆さんはどのような感想を持たれるのでしょうか。結局のところ以上に書いてきたのは私個人の意見に過ぎませんし、いかんせん高雄統子さん贔屓に書いていることも否めません。 この話数における劇伴としての主張は【ドラマと日常を明確に分け、涼宮ハルヒシリーズの主体をハルヒからキョンへと移行する重要な鍵である】とさせていただきました。そもそもこの主体の転換は涼宮ハルヒの消失において明確になされるわけですが、そのプロローグとしてこのエンドレスエイトがあることは有名なことなのかもしれません。そして拡大解釈を恐れずに言えば、この転換を結果的にとても意識する形となったのは、このエンドレスエイトIVではないでしょうか。それはコンテや演出においてもそうですが、それを影で助長を促したものとして、この劇伴音楽の発注や設定があったように思います。エンドレスエイト他話数でも劇伴他に関する意識は各人がとても持って臨んでいるように感じていますが、この結論に関してはこの高雄統子さんが担当された第15話エンドレスエイトIVがとても顕著にあるように思います。もしかしたら、ここでの主体の転換と長門の人間生命獲得の意識が涼宮ハルヒの消失において、高雄統子さんがコンテを立候補したことにつながるのかもしれませんね。



    ■著者紹介

    Takashi(@real_tenshi)。

    中学卒業以来10年ぶりにアニメファンに返り咲いたのがこの涼宮ハルヒの憂鬱。特に2期を推していて、エンドレスエイトの素晴らしさを影でコソコソと声高に叫び続けている。高雄統子のファンであり、涼宮ハルヒの憂鬱3期を彼女が監督かシリーズ演出として実現することを密かに望んでいる。好きなキャラは佐々木と朝倉。

    ■ハルヒシリーズで好きな劇伴曲

    「いつもの風景」
    「エンドレスなる月光」
    「入道雲と紙ヒコーキの関係」

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  • はじめに ~「繰り返し」への注目~
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    ©2006,2007,2008,2009谷川流・いとうのいぢ/SOS団

    ピアノナイクさんは「涼宮ハルヒの憂鬱」というアニメと劇伴との関係を「日常/非日常」、そして「繰り返し/一回性」との対比という視点から考察している。繰り返し使用された日常の劇伴に対して、1回限りの決め打ちで使われるクラシック音楽――そしてそれは他文脈性に由来する非日常性を持っている――がアニメの演出において最大の効用をもたらすとしている(特に「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅵ」(第14話/第6話)(以下「サブタイトル」(2006年版放送話数/2009年版放送話数)と表記)において使用されたマーラーの交響曲第8番をその最たるものだと高く評価する)*1。
    つまり、非日常的で1回限りの音楽がもたらす演出効果を最大化するために、日常の音楽は繰り返され視聴者に印象付ける必要があった、と言い換えることもできよう。

    *1:ピアノナイク「劇伴レビュー【第6話】閉鎖空間に鳴り響くマーラー交響曲第8番」参照

    しかしピアノナイクさんは、だから日常の繰り返し演出の方が添え物であるとは言わず、音楽プロデューサーの斎藤滋さんの発言を引用、音響監督の鶴岡陽太さんの演出論に触れながら、その演出的効果の意義を「作品全編にわたってかけがえのない青春の1ページ的場面を何度も彩ってきたこの楽曲がクライマックスで流れることで、映像によって過去の思い出のシーンをフィードバックするといった演出を挟まずとも、音楽のみの喚起力によって走馬灯のように過去のシーンが甦る」と論じている。
    視聴者は、毎回繰り返し使用される音楽に、知らず識らずのうちに過去の使用シーンのイメージを重ね、作品の世界観――日常と言い換えてもいい――に没入していくのである。


    というわけで、本記事ではこの「繰り返し」という点に注目して、論を立ててみることにする。したがって、作品のある1話のある1曲を取り出してその音楽的効果を語ったり(子記さん)、各話で使用された楽曲の使用楽器やそれが象徴するところのもの、あるいはそれらの音楽史的位置づけを試みたり(cppzさん、たっくるさん)、といったものと性質を異にしているということを予めお断りしておく。レビューというよりもむしろ劇伴を通したアニメ演出論の考察に近いかもしれない。そしてこれは一般化できるものではなく、この「涼宮ハルヒの憂鬱」というアニメにおいてのみ有効な特殊なものであろう。


  • 2006年版からみると
  • さて「涼宮ハルヒの憂鬱」は、テレビアニメ第1期では全14話構成で放送された。2009年版では時系列順に放送されたし、2006-7年発売のパッケージ版も順番通りに収録された。しかし2006年版、すなわち最初に放送された時の順番は原作1巻の「涼宮ハルヒの憂鬱」(以下「憂鬱」)という長編の途中に短編が挿入される形での放映であった(「憂鬱」はそれぞれⅠ-第2話、Ⅱ-第3話、Ⅲ-第5話、Ⅳ-第10話、Ⅴ-第13話、Ⅵ-第14話(1期最終話)として放映)。
    つまりこの構成により、原作では後の巻にあたるエピソードが1巻のエピソードが完結するよりも前に放送されたのである。


    それは先述した「繰り返し演出」との関係において何を意味するのか……いや、もったいぶる必要もあるまい。
    2006年版の放送順は、我々視聴者に未来のイメージを、過去に重ねることを命じているということである。より具体的に言おう。2006年版の放送順は時系列シャッフルが行われており、本来、作品内の時間軸において未来にあたるはずのエピソードが、過去のエピソードに先行してしまっている、そのため、作品を外側から「視聴者」という視点で観測する我々にとって、未来を所与のものとして過去に相対せねばならないのである。


    以下の左表は、時系列順であった使用劇伴一覧を2006年の放送順に並びなおしたものである。
    参考までに、右には時系列順のものを用意した(元図表の作成は子記さんと小山内ともさん、一部改変)。

    ハルヒ 放送順 ハルヒ 時系列順

    ※注:「朝比奈ミクルの冒険 Episode:00」(第1話/第25話)は劇中劇であり、使用劇伴も一度きりのものが多いため、表からは除いた。またそれに伴い、その話でしか使用されなかった楽曲も省略した。青色で塗ってあるのは「憂鬱」のⅠからⅥの楽曲である。というか、見にくくて大変申し訳ない。
    ※1期エピソードのタイトルと話数 参考
    凡例「サブタイトル」(2006年版/2009年版 放送話数)
    「朝比奈ミクルの冒険 Episode:00」(第1話/第25話)
    「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅰ-Ⅵ」(第2話/第1話, 第3話/第2話, 第5話/第3話, 第10話/第4話, 第13話/第5話, 第14話/第6話)
    「涼宮ハルヒの退屈」(第4話/第7話)
    「ミステリックサイン」(第7話/第9話)
    「孤島症候群 前/後編」(第6話/第10話, 第8話/第11話)
    「射手座の日」(第11話/第27話)
    「ライブアライブ」(第12話/第26話)
    「サムデイ イン ザ レイン」(第9話/第28話)

  • 具体的に
  • 代表的な劇伴である「いつもの風景」を例に見てみよう(表では上から2曲目)。
    時系列順に視聴した場合、「憂鬱Ⅵ」視聴時に我々が抱くのは「憂鬱Ⅰ」である。つまりその時点において、第1話しか想起しえない。そのため終盤で「そして、いつもの風景」であのフレーズが流れた時、我々が思い出す日常は1話、あるいは6話のアバンだけなのである。2009年版やパッケージ版で初めて観た方々はそのように印象するしかない。
    しかし、2006年版においては「憂鬱Ⅰ」に加えて、「涼宮ハルヒの退屈」(第3話/第7話、以下「退屈」)、「サムデイ イン ザ レイン」(第9話/第28話、以下「サムデイ」)、「射手座の日」(第11話/第27話)がそれに先行する。各話のイメージもまた「憂鬱Ⅵ」に重なってくることになるのだ。
    逆に言えば、我々は時系列順に観る時「憂鬱Ⅰ」「憂鬱Ⅵ」「退屈」「射手座の日」という思い出の日々を、最終話「サムデイ」に重ねて観るのである。


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    ©2006,2007,2008,2009谷川流・いとうのいぢ/SOS団


    その他の楽曲についても同様である。
    複数回に亘って使用された劇伴については「何かがおかしい」「おいおい」「憂鬱の憂鬱」「好調好調」「ザ・強引」といった本編を通して8回以上使用されるもの、あるいは「うんざりだ」「激烈で華麗なる日々」のように主に前半で活躍する楽曲、「みくるのこころ」「長門の告白」「ミステリータイム」などキャラクターのテーマ楽曲的なものまで存在する(「ザ・強引」はキャラクターのテーマ楽曲にも含まれるかもしれない)。だがいずれにしても、日常を彩る劇伴の数々はその受容に際して、放映の順番が前後してしまうために、2006年版と2009年版とで異なる文脈に位置付けることを余儀なくされるのである。


  • シャッフルがもたらしたちぐはぐタイトル
  • 時に順番の前後は、各劇伴のタイトルと使用シーンとの関係にもズレを与える。
    2006年版の放映順では、「神人」も対神人よりも先に対上ヶ原パイレーツ戦で聴くことになってしまう。間違いではないが「閉鎖空間」がはじめにかかるのも対カマドウマ戦ということになる。ともすると「神人」は「上ヶ原パイレーツ」という題になっていたのかもしれない。もし「憂鬱Ⅴ」で、古泉一樹が劇伴「上ヶ原パイレーツ」にあわせて神人と闘っていたら……なんともマヌケではなかったか。もっともたかだか1度かかったくらいで劇伴とシーンのイメージが無意識に刷り込まれるということも考えにくいので、必ずしもすべてに妥当するとはいえないだろう。それでも「この曲どこかで聴いたような……」という直観的感覚が不意に訪れることもまた事実である。野球対決で世界存亡の危機を表す曲がかかるのは愉快な誇張表現ともなろうが、世界存亡の危機に野球対決の曲がかかるというのは軽薄すぎる。ここに関していえば、時系列順に観たほうがいいのかもしれない。


    それはさておき。順番の前後はこんなところにも見出せる。
    時系列順に観ると「ある雨の日」「憂鬱Ⅵ」ではじめて聴くことになる劇伴である。しかし、そのタイトルが意味するのは”Someday in the rain”、すなわち「サムデイ」のほうであろう。もともとどちらのシーンに使用するためにかかれた楽曲なのかは明らかではないが、2006年版において「サムデイ」のほうが「憂鬱Ⅵ」よりも先であったことから「サムデイ」のためにかかれた楽曲とみるのが自然であろう。我々視聴者は無意識にあの雨の日の2人の帰り道を、「憂鬱Ⅵ」の文芸部室のSOS団員たち――むすっとしながらみくるの髪をおだんごにするハルヒ、本を読む長門、古泉とオセロに興じながら「こんな日がずっと続けばいい」と言うキョン――に重ねる。意図的な演出であるならば、それは制作者側から「『サムデイ』『憂鬱Ⅵ』に重ねて観よ」という視聴者に対する婉曲的な指示であると考えることもできる。


  • 結論
  • 一般に、繰り返される音楽がゆえに、シーンのイメージは無意識に刷り込まれ、積み重ねられ、同じ音楽がかかった時に感動を惹起させる。2006年版「涼宮ハルヒの憂鬱」においていえば、時系列シャッフルという演出のために、未来の出来事の記憶や印象を過去に起こった出来事に重ねて観ることになるのである。
    考えてみれば、未来のイメージを過去に重ねる、そんな視点は時間遡行が可能である未来人にしかできないことである。しかし我々にはそれが可能なのだ。ここにおいて、我々視聴者こそが実は未来人、朝比奈みくるであったのだと気づかされるのである(藤原かもしれないが)。シャッフル的解釈を十全に堪能できるのは、初見の、しかも2006年版から観始めた視聴者にのみ与えられた特権である。2周目、3周目を観る者にとってあらゆる情報はすでにサブリミナルに刻まれており、観れば観るほど15000回以上の夏休みをループした記憶が既視感となってキョンを襲ったように、劇伴に対して感覚せざるをえなくなる。この時、同じシーンの過去の記憶を重なることになり、視聴者はより時間を超えた存在としての視点から作品に向き合っていくのである。

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    ©2006,2007,2008,2009谷川流・いとうのいぢ/SOS団


  • むすびにかえて ~サントラ発売がアニメ解釈に与える影響~
  •  なお今までハルヒ劇伴は、DVDやBDの特典CDとしての流通であり、鑑賞の対象を主として既に視聴したことのある者にしていた。しかし、サウンドトラックの発売はアニメ未視聴者にも音楽を聴く機会を与える。これはアニメの文脈を超え、視聴者の日常生活すらもアニメ視聴時の印象に重ねうる。誰と、どこで、いつ、何をしながら、どんな日に、どんな気持ちでアニメを観たか。こうして、「涼宮ハルヒの憂鬱」は我々の日常という文脈を得て、より生き生きとしたものとして視聴できる可能性を獲得した。より広範な文脈での視聴を可能にしたサントラの発売は実に喜ぶべきことである。以上のような視点でサントラ発売という事実そのものを捉えなおすと、2016年7月7日はアニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」にとって間違いなく画期的な日だといえよう。発売、本当におめでとうございます(実はこれが言いたかっただけです!)。



    ■著者紹介

    らゅしあ(@astro_phom)。
    Elements GardenとMONACA楽曲ファン。ハルヒは青春そのもの。キャラソンは「パラレルDays」が好きです。

    ■ハルヒシリーズで好きな劇伴曲

    「SOS団始動!」(特に好きな1曲。この曲のパヤパヤ感が最高なんです、殿堂入り。)
    「長門VS朝倉」「笑顔で強引に進む女」

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